宗教という利己的なミームの乗り物としての人間

先日、「進撃の巨人」の設定をめぐるやまもといちろうさんと作者の諫山創さんとの議論に関して、id:gryphonさんがなかなか興味深い考察を書いておられたので、それをブックマークしたところ、そのブクマコメントがはてなスターを7個も頂戴したのみならず、gryphonさんのブログでも紹介されることとなりました。はてなスターをくださった皆さん、そしてgryphonさん、ありがとうございました。

ちなみに、私が書いたブクマコメントというのは、次のようなものでした。

キリスト教の神学も、聖書の裏設定をめぐる論争の成果と言えなくもない。

gryphonさんの考察を読んだとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは、このコメントに書いたとおりのことだったわけですが、そのあと、もうしばらく考えてみたところ、これはもしかするとキリスト教だけの問題ではなくて、多かれ少なかれすべての宗教に関係する問題ではないかと思えてきました。

人間には、自分たちが生きている現実世界について、超自然的な裏設定を考え出す本能のようなものがあります。そして宗教というのは、そのような裏設定が発展することによって構築されたものだと考えることができます。しかし、誰かが思いついた現実世界の裏設定が、何の議論もないまま宗教として発展していくとは思えません。おそらくその過程では、様々な人々がその裏設定をめぐって持論を述べて、熱い議論が交されたに違いありません。おそらくそのような議論は、ファンタジーやSFの裏設定をめぐる議論と同様に、それ自体が楽しいものだったでしょう。しかし、現在の我々は、現実世界の裏設定をめぐる議論というものに、ほとんどお目にかかることができません*1

人間というのは、利己的な遺伝子の乗り物であると同時に、利己的なミームの乗り物でもあります。ミームは、自己を正確に複製しながら、人間を乗り物にして過去から未来へ旅を続けていきます。そして、自己複製の正確さを確保するために、様々な戦略を練っています。議論が収束してしまった宗教は、ミームの一種だと考えることができます。ミームになった宗教が、自己を正確に複製させるために編み出した戦略の一つは、「宗教はフィクションではなく現実である」という認識を人間に植え付けることでした。現代に生きる我々が現実世界の裏設定をめぐる議論になかなかお目にかかることができない理由は、この戦略が効果を発揮しているからです*2

しかし、はたして人間は、宗教というミームによっていつまでも乗り物にされていてよいのでしょうか。ミームになってしまった宗教は、ミームとしては生きているわけですが、宗教としては死んでしまっています。宗教が生きているというのは、それがフィクションであるという認識が生きているということです。生きている宗教は議論の対象にすることのできるものであって、その議論は、楽しくて面白くて愉快なものです。それは可塑的なものであって、みんなで議論して、どんどん改良していくことのできるものです。宗教がミームとなって、それによって人間が乗り物にされているという状態は、人間にとって非常にもったいないことです。今こそ我々は、現実世界の裏設定について楽しく議論するという、宗教の原点に戻るべきではないでしょうか。

*1:開宗したばかりの宗教団体の幹部たちは、自分たちの宗教について議論を重ねていると思われます。しかし、それは密室の中の議論であって、その宗教団体の外部にいる人間はもとより、その宗教団体の幹部以外の信者でさえ、その議論の過程を知ることはできないでしょう。

*2:キリスト教は、その教義をめぐる議論を排除しないという伝統を持っています。しかし、キリスト教というミームは、聖職者と神学者を分離し、後者を大学の中に囲い込むという戦略によって、自己をめぐる議論が自己複製の正確さを阻害しないように配慮しています。