トルコにおけるイスラームと日本における国家神道

2007年7月に私は、「政教分離と民主主義」というブログエントリーで、トルコにおける政教分離が危機に瀕していることに懸念を表明したのですが、それから6年が過ぎた現在のトルコは、6年前に私が危惧したとおり、祭政一致への道を着実に進みつつあります。

トルコでは、2002年の国会議員選挙で、レジェプ・タイイップ・エルドアン氏が率いるイスラーム主義政党の公正発展党(AKP)が単独与党になったのですが、これまで彼らはイスラーム色を前面に出さず、経済政策によって堅実に支持を拡大してきました。しかし最近になってエルドアン政権は、酒類の販売の規制を強化したり、大学構内でのスカーフの着用を緩和したりするなど、徐々にイスラーム色を強めつつあります。

6年前のエントリーで私は、政教分離から祭政一致への回帰はトルコのみの現象ではなく、人類全体がそのような時代を迎えようとしているのではないかと指摘しました。しかし、その当時の私は、日本に関してはこれからも政教分離が維持され続けるだろうと楽観視していました。なぜなら、国家神道がもたらした凄惨な戦争の歴史を日本人が忘れるはずはないと思われたからです。事実、戦後の日本における政教分離は、これまでのところ、靖国神社問題などの多少の逸脱はあるものの、トルコのように危機に瀕しているというほどの状況ではありませんでした。しかし、今は違います。現在の日本において、政教分離は危機に瀕していると言っていいでしょう。

トルコの公正発展党も、日本の自民党も、民主的な選挙によって政権を獲得した政党です。言い換えれば、それらの政党は国民の多数派によって支持されているということです。しかし、それらの政党に対する多数派からの支持は、それらの本質に対する支持ではなく、主としてそれらの経済政策に対する支持です。公正発展党の本質はイスラーム主義政党で、自民党の本質は国家神道主義政党です。トルコの有権者も日本の有権者も、経済政策に目を奪われて、それぞれの国の与党が持つ、祭政一致を目指すという本質を見落としています。

憲法の制定を目指すことを綱領に掲げる自民党は、自分たちが理想とする憲法の姿を「日本国憲法改正草案」として公表しています。この改正草案がいかに問題点の多いものであるかということに関してはすでに多くの人が指摘しているとおりです。それらの問題点の一つとして、政教分離を形骸化させる条文の改変、というものがあります。

現行の日本国憲法は、その第二十条と第八十九条で政教分離を規定しています。第二十条第三項は次のような条文です。

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

それに対して、自民党による改正草案の第二十条第三項は次のような条文になっています。

国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

現行の憲法のもとでは、国や地方自治体による宗教的活動はいかなるものであろうと違憲ですが、もしも自民党の改正草案のとおりに第二十条第三項が改変されたとすると、たとえ国や地方自治体が宗教的活動をしたとしても、それが「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」と判断されるならば合憲となります。近代天皇制の時代の日本においては、「神道は宗教ではない」という詭弁のもとに神道の国教化が進められました。この前例を踏襲すれば、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」は、あらゆる神道の祭祀に拡大することが可能です。すなわち、改正草案の第二十条第三項は、国家神道の復活に道を開くものだと言うことができます。

もしも日本国憲法の第九条が自民党の改正草案のとおりに改変されたとすると、日本は「国防軍」と呼ばれる軍隊を保有することになるわけですが、それに加えて第二十条第三項もまた自民党の改正草案のとおりに改変されたとすると、その条文は国防軍の目的を変質させることになるでしょう。日本が保有する軍隊は、現行の第二十条第三項のもとでは日本の国民を守るために存在することになりますが、改変された第二十条第三項のもとでは、国民ではなく国体を守る軍隊へと徐々に変質していくことになります。

かつて国家神道が日本の国教だった時代においては、日本の軍隊は日本の国民を守るためのものではありませんでした。このことは、1945年3月20日大本営陸軍部が配布した「国土決戦教令」[PDF]と題する文書の中の次の一節が如実に物語っています。

第十四 敵ハ住民、婦女、老幼ヲ先頭ニ立テテ前進シ我ガ戰意ノ消磨ヲ計ルコト在ルベシ斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇國ノ戰捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵撃滅ニ躊躇スベカラズ