ディープな観光スポット:鹿児島編

「ディープな観光スポット」シリーズの鹿児島編として、来迎寺跡墓塔群(らいごうじあとぼとうぐん)というところを紹介させていただきたいと思います。

来迎寺跡墓塔群は、薩摩半島の北西部にあります。住所はいちき串木野市大里1197、最寄り駅はJR鹿児島本線市来駅または湯之元駅です。国道3号線南九州自動車道とが交差しているところから国道3号線に沿って西へ300メートルほど離れたところにコメリハード&グリーン市来店という農業用品の店舗があるのですが、その東側に、来迎寺跡墓塔群への道順を示す案内板が立てられています。その案内板が示しているとおりにゆるやかな坂道を登っていくと、左手に、来迎寺跡墓塔群の方角を示す道標が立っています。その方角に向かって未舗装の道を100m進むと、林に囲まれた目的地に到着します。

来迎寺跡墓塔群は、その名前のとおり、かつて来迎寺という寺院が存在していた場所に残されている墓塔群です。来迎寺跡のある地域は、古くは市来院(いちくのいん)と呼ばれ、院司職(いんししき)と呼ばれる地位に就いた人物によって支配されていました。奈良時代後期には大蔵氏が院司職に就いたのですが、大蔵氏は寛元二年(1244年)に院司職を市来氏(いちきし)に譲っています。市来氏は、代々、院司職を相続しますが、第七代久家の時代、寛政三年(1462年)に島津氏第十代立久によって滅ぼされます。

来迎寺は、市来氏が自らの菩提寺として建立した寺院です。したがって、そこに残されている墓塔群は、その大部分が市来氏の関係者のものであろうと推定されています。また、第三代時家、第四代氏家、第五代忠家、第六代家親については、墓塔が特定されています。

来迎寺跡墓塔群は、鹿児島県が文化財として指定しているものと、いちき串木野市文化財として指定しているものの二群に分かれていて、それぞれの墓塔群は、少し離れた位置にまとめて置かれています。被葬者が特定されている墓塔は、すべて鹿児島県指定文化財に属しています。

いちき串木野市指定文化財の墓塔群のうちの一基は、他の墓塔群がまとめて置かれている位置から離れた、来迎寺跡の中央にあります。それは三層の層塔で、他の墓塔とは違って石塀で囲まれています。この層塔は、「三国名勝図会」という書物*1が「丹後局」の墓であると述べているものです*2。しかし、この層塔には、丹後局よりも時代が下る、「文永十二年四月廿二日」という紀年銘がありますので(文永十二年は西暦1275年)、彼女のものではなく市来氏の関係者のものであろうと推定されています。

島津立久は、市来氏を滅ぼしたのち、両親の菩提寺として龍雲寺という寺院を建立します。そして文明五年(1473年)に立久は来迎寺の寺領を龍雲寺に寄進し、来迎寺は廃寺となります。その後、来迎寺は、天文十七年(1548年)に龍雲寺の住持だった玄済によって龍雲寺の末寺として再建されますが、明治初年の廃仏毀釈によって再び廃寺となります。

*1:薩摩藩藩主島津斉興が編纂を命じた、薩摩、大隅、日向の三国の地誌。天保十四年(1843年)に完成。全60巻。

*2:ここで言われている「丹後局」というのは、後白河法皇の寵妃となった高階栄子のことではなく、源頼朝の乳母の娘で、島津氏初代忠久の生母である丹後内侍のこと。ちなみに、島津家に伝わる文書では、丹後内侍は頼朝の側室であり、忠久は頼朝の落胤であるとされているが、史実としては認められていない。