梅ちゃんとグレさんと鰤たんのコメントについての感想

おにぎり梅ちゃんさん(以下「梅ちゃん」)とgurenekoさん(以下「グレさん」)とBrittyさん(以下「鰤たん」)が拙ブログのエントリーにコメントを付けてくださいましたので、それらのコメントについての感想を述べておきたいと思います。


まず最初は梅ちゃんのコメント。

「 曲解 」 ってことでそか?

このコメントは、幸福の科学の教義を否定している佐藤哲朗さんを私が批判したことに対する、「他者を否定する者を否定するのは、おk?」という梅ちゃんの質問に対して、私の批判は否定ではないと回答したことに対する再質問です。この質問に対して、解釈の対象となっている文章を書いた本人の立場で回答すれば、「はい、曲解ですね」ということで終わってしまうわけですが、書いた本人という立場から離れて考えると、もっと違うことが言えそうです。

自然言語で書かれたすべての文章は多義的です。そして、文章というものは、それが公開された瞬間から、筆者のみの占有物ではなくなります。ですから、明らかな誤読は批判されてしかるべきですが、多義性の範囲内であれば、どのような解釈にも存在の余地があります。佐藤さんに対する私の批判を、佐藤さんの何らかの主張に対する否定と解釈することは、けっして不可能ではありませんので、梅ちゃんの解釈も、私の文章についての妥当な解釈の一つと言っていいでしょう。


次はグレさんのコメント。

これは幸福の科学が「仏教」を名乗っている事も、問題を複雑にしている原因だと思います。

幸福の科学の公式サイトには、「幸福の科学は仏教なのですか?」という質問に対する次のような回答が掲載されています。

幸福の科学は、大川隆法総裁が現在進行形で説かれている教え(仏法真理)を学び、実践する宗教です。教えの基礎には仏教的精神が流れていますが、中国などから伝わった仏典を掲げた宗教ではなく、既存の仏教の一派ではありません。

Q&A(よくあるご質問にお答えします)

ですので、幸福の科学が「仏教」を名乗っているというグレさんの認識につきましては、ちょっと疑問符を付けさせていただきたいと思います。

 道教・反本地垂迹説系神道ヒンズー教が、仏陀という概念に仏教の多数派の見解とは異なる意味を与えていても、怒る仏教徒は非常に少ない。多くの仏教徒は、「そっちはそっちで御自由にどうぞ。」という気分になるのでしょう。
 しかし仏陀への意味付けが余りに仏教の多数派と異なる集団が仏教を名乗れば、「仏教なのになんで仏陀がまだ輪廻から逃れられていないなんて言うんだ!」という疑問を持つ人や「よろしい、どちらが真の仏教か議論で決着をつけよう。」と乗り出す人が数多く出てくるのも当然だと思います。

仏陀」という名辞に仏教とは異なる意味を与えているという点では、仏教以外の伝統宗教幸福の科学も同様なのに、後者に対してのみ一言居士が湧いてくる理由は、後者が仏教を名乗っている(と思われている)からという理由よりもむしろ、次のような理由によるものではないかと私には思われます。すなわち、第一に、後者は前者よりも新しい宗教であり、反感を持っている人が多いから、第二に、前者よりも後者のほうが、仏教とは異なる意味が与えられた「仏陀」という名辞を、教義の中の重要な位置に置いているから、そして第三に、後者が「仏陀」という名辞に与えた意味が、仏教での本来の意味を真っ向から否定しているから、という理由です。

なお、「どこまでが仏教なのか?」の線引きは最終的には各人の見解に委ねるしかないのですが、私は議論は議論で大いになされるべきだと思います。

この点につきましては、基本的には同感です。ただし、そのような議論に参加する人間は、自分自身の信仰から離れて、学術的な立場で発言すべきである、と付け加えさせていただきたいと思います。議論の参加者が彼ら自身の宗派の立場に立ったままでは、犬も食わない不毛な論争に終始するだけでしょうからね。


次は鰤たんのコメント。

新興宗教がある人々にうそくさいものとみられるとすれば、それが信者集団や民族集団(もっともこのふたつは民族宗教においては同一ですが)の集団的共同的所産ではなくて、誰か個人の想像力の(たいていは貧しい)所産とみうけられるからではないでしょうか。

新興宗教を「うそくさいもの」と感じる「ある人々」の多くは、伝統宗教に軸足を置いている人々だろうと考えていいでしょう。現代の日本においては、伝統宗教に軸足を置いていない人々が増加しつつありますので、それが、幸福の科学などの新興宗教の隆盛を招いていると思われます。

ついでに言うと、私は伝統宗教ではなくて、不可知論に軸足を置いていますので、「うそくさいもの」と感じるのは、新興宗教のみならず伝統宗教も同様です。「万人教祖主義」(人間は誰でも教祖になることができる)という教義を持つ共存型一神教という新興宗教を私が設計した背景には、「宗教は、たとえうそくさくても、各自が想像力を振り絞った所産であればそれでいいんだ」という開き直りが存在しているように思われます。