アブラハム宗教に関するシンポジウムを聴講してきました

先日、同志社大学一神教学際研究センターが主催する、「宗教の出会いがもたらす争いと豊かさ――ユダヤ教キリスト教イスラームの記憶から未来へ」というシンポジウムを聴講してきました。

講師は、レオ・ベック・カレッジ名誉教授のジョナサン・マゴネット(Jonathan Magonet)さん、ヘブライ大学名誉教授のポール・R・メンデス=フロール(Paul R. Mendes-Flohr)さん、マレーシア国際イスラーム大学教授のイブラーヒーム・モハメド・ザイン(Ibrahim Mohamed Zein)さん、ハートフォード神学校マクドナルドセンター教授のヤフヤー・M・ミショット(Yahya M. Michot)さん。司会は同志社大学神学部教授の小原克博さん。

このシンポジウムを聴講して、興味深いと私が思ったのは、基調講演の中でザインさんが語った次の言葉でした。

三つのアブラハム宗教を背景とするかなりの数の真面目な学者たちが、神の存在にもとづく対話を促進するために全力を尽くすだろうということを私は信じています。しかし、「君たちはどの神について話をしているのか」と懐疑論者は言うかもしれません。これに対する単純な回答は、彼は創造と戒律の神だというものです。もっと正確に言えば、彼は、アブラハムモーセ、そして預言者たちの神です。これらの二つの主張は、三つのアブラハム宗教の間にある共有された神学の基礎となるものです。

ザインさんが言う「懐疑論者」と同様、私にとっても、「どの神について話をしているのか」というのは興味を引かれる問題です。ユダヤ教キリスト教イスラームの学者たちがそれぞれの宗教について対話をする場合、彼らは、自分たちは一柱の神を共有していると認識しているのでしょうか、それとも、それぞれの宗教ごとに一柱の神が存在していると認識しているのでしょうか。ザインさんの言葉は、彼が前者の立場に立っていることを意味しているように思われます。

三つのアブラハム宗教において崇拝の対象となっているのは、いずれも、アブラハムモーセに啓示を与えた神であると規定されています。ですから、自分たちの神は三つの宗教に共通しているというのは自然な認識なのかもしれません。しかし、それぞれの宗教の学者たちがその認識の上で対話に臨んだとすると、彼らは、神は同一のはずなのにそれぞれの宗教ごとに異なる啓示が与えられたことをどのように理解すればいいのかという問題に直面せざるを得ません。一柱の神を共有しているという認識は、三つの宗教の間での対話において、不毛な神学的論争の火種にしかならないものです。それに対して、それぞれの宗教ごとに一柱の神が存在するという認識を持っているとすると、啓示が異なっていることを受け入れるのは容易です。したがって、三つのアブラハム宗教の間で実りのある対話をするためにはどうすればいいかという観点から見た場合、それらの宗教の神は共通であるという認識よりも、それぞれの宗教が崇拝する神は異なる存在者であるという認識の方が望ましいように思われます。

「それぞれの宗教ごとに異なる神が存在する」という認識を持つためには、「自分たちが崇拝しているのはアブラハムモーセに啓示を与えた神である」という認識を捨てなければならないのではないか、と思う人がいるかもしれません。しかし、その心配は無用です。なぜなら、宗教は超自然的現実を作り出すものであり、超自然的現実は、それを作り出した宗教ごとに異なるものだからです。

経験的現実、すなわち経験的な手段によって認識することのできる現実は、一つしか存在しません。それに対して、超自然的現実は宗教の数だけ存在します。ユダヤ教が作る超自然的現実、キリスト教が作る超自然的現実、イスラームが作る超自然的現実は別々のもので、それぞれの超自然的現実の中に存在する「アブラハムモーセに啓示を与えた神」も別々の存在者です。つまり、メタ宗教的な視点から見た場合、三柱の神が存在するわけです。それらの神々は、アブラハムモーセに対して同一の啓示を与えました。つまり、アブラハムモーセは、三柱の異なる神が同時に発した同じ言葉を聞いたのです。しかし、それらの三柱の神々のうちで、イエス聖霊を流出させたのはキリスト教の神だけで、ムハンマドに啓示を与えたのはイスラームの神だけです。

宗教間対話に携わる学者たちは、宗教が作り出す超自然的現実はそれぞれの宗教ごとに異なるという考え方を容易に理解することができるでしょう。そして彼らは、その考え方にもとづいて実りのある対話を進めることができるでしょう。しかし、学者たちの間で神学上の合意に達することは、宗教間対話の通過点に過ぎません。その究極的な目的は、対話に携わる学者たちの背後にいるすべての信徒たちの共存です。その目的を達成するためには、超自然的現実はそれぞれの宗教ごとに異なるという考え方を常識として普及させるための具体的な方法について検討する必要があります。