「五大記」第四十二話を公開しました

五大記」の第四十二話を公開しました。タイトルは「円筒」です。

「神学」(theology)という言葉があります。この言葉は、通常、「神について、その神に関する教義は真実であるという前提の下で探究する学問」という意味で使われます。この学問は、探究の対象となっているのがどの神なのかということによって、ゼウス学、盤古学、サラスヴァティー学、猿田彦学、YHWH学、……という無数の領域に細分化することが可能です。しかし、現実には、YHWH以外のほとんどすべての神については、彼ら(彼女たち)に関する教義が真実だという前提の下で彼らを研究の対象とする研究者が存在しないため、開店休業の状態にあります。ですから、「神学」という言葉は、多くの場合、YHWH学という意味で使われます。

2007年11月に私は、「神学と数学」と題するブログエントリーの中で次のように述べました。

神学は、「神は存在する」という命題を含んでいる。それは反証可能性を持たない命題であり、したがって、神学は少なくとも自然科学ではない。しかし、だからと言って神学は学問ではないとまでは言えない。神学というのは数学と同様に、公理系から演繹された定理から構成される理論について研究する学問であって、そこでは公理の根拠というものは問われないのである。

「神学と数学との間には類似性がある」という私の考えは、現在も変わっていません。しかし、神学と数学の間には、類似性だけではなく、相違点もあります。最大の相違点は、数学の公理系はきわめて明晰に表現されているのに対して、神学の公理系を構成する命題(すなわち神に関する教義)は曖昧さを含んでいるという点です。したがって、数学とは違って、神学では、公理系に含まれている命題をどう解釈するかということによって、研究者ごとに学説が分かれることになります。その結果として、単なる論理だけでは、どの学説が正しくてどの学説が正しくないのかということを判定することができず、神学における議論は、永遠に平行線をたどることになります。

日本語において、「神学論争」という言葉は、「神学における論争」という本来の意味よりもむしろ、「結論の出ない不毛な論争」というような意味で使われることが多いようです。この言葉がこのような意味で使われるのも、神学という学問が持っている、「公理の根拠を問わないという点では数学に似ているが、数学とは違って公理が曖昧に表現されている」という特異な特性に起因するものです*1

このように、神学という学問は、きわめて特異な特性を持っているわけですが、厳密に言えば、この特性は、「我々の現実の世界に存在する神学」が持っているものです。我々の現実の世界ではない、想像上の世界においては、まったく異なる特性を持つ神学が存在することも許されるでしょう。

「五大記」にも、我々の現実の世界に存在する神学とは異なる特性を持つ神学が登場しています。第二十五話に登場する、神学上の理論を実験によって検証する「実験神学」という学問も、その一つです。また、第三十八話に登場する神学は、もともとは我々の現実の世界に存在する神学に類似した学問だったのですが、霊量計と霊波観測器という、神を観測する装置が発明された結果として、第二十五話に登場する神学と同様に、実験によって理論を検証する学問へと変質します。

そして、「五大記」第四十二話も、現実の世界に存在する神学とは異なる特性を持つ神学が登場する物語です。この物語に登場する神学がどのような学問なのかということにつきましては、ぜひ、本編を読んで確かめていただきたいと思います。

*1:日本人の神学者の中には、「神学論争」という言葉が「結論の出ない不毛な論争」という意味で使われることを快く思わない方々もおられるようです。たとえば、同志社大学神学部の小原克博さんも、「神学論争」というブログエントリーの中で、「神学論争」という言葉を安易に使う日本のマスコミに対して苦言を呈しています