すべての宗教はファンタジーである

先日、「宗教多様性の保全」という「存在論日記」のエントリーで、幸福の科学の教義に対する佐藤哲朗さんの批判は非ユークリッド幾何学の命題の真偽をユークリッド幾何学で判定するようなものだと書いたところ、ragarajaさんという方から、はてなブックマークで次のようなコメントを頂戴しました(コメントの中で「Ajitaさん」と呼ばれているのは、佐藤さんのこと)。

まあそりゃそのとおりだね。しかしAjitaさんの宗教的立場からああ言うのもまあ当然だろうとは思う。自分はもういまさらトンデモ宗教世界観なんてどうでもいいやって立場。ファンタジーの一種。

http://b.hatena.ne.jp/ragaraja/20091129#bookmark-17584018

ragarajaさん、コメントをくださいまして、ありがとうございました。

はてなブックマークのコメントには、100文字までという文字数制限があります。そのため、コメントはしばしば表現が簡約化されていて、筆者の意図を誤解の余地なく表現しているとは限りません。ですから、ragarajaさんのコメントについてこれから私が述べることは、ragarajaさんの意図を汲んだ上での応答ではなくて、単に、コメントに触発されて私の脳裏に浮かんだ妄想にすぎない、ということをあらかじめお断りしておきます。

ragarajaさんのコメントの中では、「ファンタジー」という言葉が、通常とは異なる意味で使用されています。この言葉は、本来、「物語のジャンルの一つで、幻想的な世界を舞台とするもの」というような意味です。したがって、この言葉を本来の意味で使うならば、幸福の科学だけではなくて、いかなる宗教もファンタジーではなくなってしまいます。ragarajaさんのコメントの中では、「ファンタジー」という言葉が、「幸福の科学はファンタジーである」という命題は真になるけれども、「伝統的な仏教はファンタジーである」という命題は偽になるような意味で使われていると思われます。ただし、それが具体的にどのような意味なのかということをコメントから読み取ることは困難です。

宗教は、本来の意味でのファンタジーではありませんが、宗教とファンタジーとの間には大きな共通点があります。それは、どちらも人間の想像力が生み出した幻想的な世界観を背景として成立している、という共通点です。したがって、「幻想的な世界観を背景として成立しているもの」という意味で「ファンタジー」という言葉を使うとするならば、「すべての宗教はファンタジーである」という命題は、おそらく真になるでしょう。

何らかの宗教を信仰している人間にとって、その宗教の背景となっている幻想的な世界観は、現実の一部分です。それに対して、その宗教を信仰していない人間にとって、その宗教の背景となっている幻想的な世界観は、現実の一部分ではありません。それでは、後者の人間にとって、その宗教の背景となっている幻想的な世界観は、まったく価値のないものなのでしょうか。

ところで、幻想的な世界観を背景としている小説を読んだり映画を観たりしている人間は、かならずしも、その世界観を現実として受け入れているわけではありません。しかし、多かれ少なかれ、彼らはその世界観に対して何らかの魅力を感じていると思われます。そして、その世界観に対して感じる魅力が大きければ大きいほど、その物語に対して感じる満足感も大きくなると思われます。ですから、幻想的な世界観を背景としている物語の作り手も、その物語を満足度の高いものにするためには、その世界観をより魅力的なものにしなければならない、と考えているはずです。

宗教についても同じことが言えます。ある宗教の信者ではない人間にとって、その宗教の背景となっている幻想的な世界観は、現実の一部分ではありませんが、その世界観に対して魅力を感じることは可能です。そして実際に多くの宗教が、その背景として魅力的な世界観を持っています*1

したがって、何らかの宗教についての知識を得ることは、その宗教を信仰しているか否かにかかわらず、物語を読んだり観たりするのと同じような満足感を得ることのできる、きわめて価値のある行為だと言っていいのではないでしょうか。

*1:宗教の背景となっている幻想的な世界観は、しばしば物語の背景としても利用されます。たとえば、「西遊記」は道教と仏教の世界観を効果的に利用していますし、「新世紀エヴァンゲリオン」はキリスト教の世界観を効果的に利用しています。